出身有名人
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建国首相 - 周恩来
 周恩来は、中華人民共和国建国首相である。お爺様は周攀竜といって、後で殿魁と改名して、山陽県判事を務めたことがある。大体清の咸豊年代に、清江浦に遷居して、1853年に戦乱を逃すために、また山陽(現在、淮安区)に遷居した。お祖母様は魯氏と言って、山陽人である。お父様は周貽能といって、周綱ともいい、清河県(清江浦に駐在)判事万青選の娘――十二姑と結婚した。
 周恩来は、清の光緒24年2月13日(西暦1898年3月5日)に淮安府山陽県駙馬巷内に出生した。幼名は大鸞、字は翔宇で、飛飛、伍豪、少山、冠生、胡公、胡必成などという筆名または偽名を使用したことがある。若い頃、家塾で学習した。1910年に、周恩来は伯父様に連れられて東北へ学習に行った。
 周恩来は偉大なマルクス・レーニン主義者、中国プロレタリア革命家、政治家、軍事家、外交家、中国共産党と中華人民共和国の主要な指導者、中国人民解放軍の主要な創建者と指導者であった。彼は毛沢東同志を核心とする共産党の第1世代の中央指導集団の重要なメンバーで、国際においても、高い威望を有していた。
 1976年1月8日に、周恩来は北京で亡くなられた。
大軍事家――韓信
 韓信は有名な「漢初三傑」の一つであった。蕭何の強力な推薦によって、漢王の劉邦は彼を大将軍に任命した。楚漢戦争の期間中、彼は部隊を率いて勇敢に戦い、七ヶ国の戦乱を鎮めて、劉邦の帝業のために、赫々たる軍功を結んだ。彼は「百万の軍隊を率いて、戦いさえすれば、必ず勝って」、 我が国の史上で才知が顕著で、最も偉い軍事家であった。明の散文家茅坤は、彼を「兵仙」と呼んで、南宋の哲学家、文学者陳亮は「韓信の軍事能力は、史上一人のみ」と評価した。彼を「冷兵器時期の最も偉大な軍事家」と呼ぶ国外専門家もいた。彼の「功績が高過ぎ、主人に不安を与え」のため、結局、「反乱企み」という罪名で殺された。
前漢辞賦家――枚乗
 枚乗は、生年月日が不詳で、紀元前140年に死んで、前漢辞賦家で、「七体」を創設して、文学史上で名が高かった。字は叔で、淮陰人であった。出仕前に、文学によって呉王劉濞の郎中を務めた。七ヶ国の戦乱を鎮められた後、漢の景帝劉啓は、郡守に補佐して郡全体の軍事を管理して地方官をするように枚乗を弘農都尉に任命しようとした。ところが、枚乗は病気を口実にして辞職して、梁国を経て淮陰に帰った。紀元前140 年に、漢の武帝劉徹は即位して、枚乗に上京するように命令を下した。年をとり体が弱かったため、苦労に堪えなかった結果、途中で病気にかかってなくなった。
劉鶚
 劉鶚(1857年10月18日~1909年8月23日)は、近代小説家。江蘇丹徒(現在鎮江市)人で、山陽(現在淮安)に住居していた。若い頃、科挙において得意ではなくて、医者をするとか、商業を営むとかしたことがある。光緒14年(西暦1888年)なら21年まで、相前後して河南巡撫呉大澄、山東巡撫張曜の幕府に入って、治黄工事に補佐をして、成績が著しかったので、府知事として任用されて、総括的な各国事務役所へ推薦された。光緒23年(西暦1897年)、外国人の福公司の招聘に応じて、山西鉱物マネージャーを務めた。八国連合軍が北京に侵入した後、劉鶚は連合軍から太倉貯蔵粟をかって、平売局を設けて北京の飢餓者を救済した。34年(西暦1908年)に、清の政府は、「倉粟密売」という罪で彼を新疆へ兵役刑に服させた。翌年、ウルムチで死んだ。
 劉鶚の小説――「老残遊記」は清朝末期の四大非難小説の一つとされている。
関天培
 関天培(1781~1841)は、字が仲因で、号が滋圃で、江南淮安府山陽県(現在江蘇淮安市淮安区)人で、清朝末期の愛国名将であった。嘉慶8年(西暦1803年)に23歳の時に武庠生に合格して、把総、千総、守備、遊撃、参将、副将などという軍職を歴任していた。1827年に、江南蘇松鎮総兵に昇格した。道光13年(西暦1833年)に江南提督を一時に務めて、1834年に広東水軍提督を任命された。就任後、すぐ広東沿海の国防事務を強化することに力を尽くした。林則徐の禁煙行動を支持した。道光21年(西暦1841年)2月6日に、英軍は虎門要塞に対して総攻撃を始めて、関天培は孤軍を率いて勇敢に奮戦して、体が傷跡だらけで戦死した。彼は「筹海初集」という著作があった。