淮安の歴史沿革
淮安市の境界線は古淮河の両岸に跨って、噂によると、大禹は曾て当境界に洪水を治まりに来て、「淮水を永く安定にしている」そうで、市名は、つまり淮水安定という意味である。
5、6千年前に、市境内に祖先の活動跡があり、そして、歴史に記載されている「青蓮崗文化」を残してきた。
夏・商・周の時代
市境界はすでにかなり開発されて、「交通・灌漑の良さは全国一」、長江、淮水を繋ぐ邗溝(つまり淮揚運河)もあり、南北に通じる陸上道路道―-善道もあったので、春秋戦国の列強の争奪していた重要地区になって、相前後して呉、越、楚国に占有されていた。
秦・漢の時代
秦は6か国を統一した後、郡県制を推進した。市境界内に、県を設立し始め、淮陰(現在淮陰区碼頭鎮)、シュイイー(現在、シュイイー県城北)、東陽(現在シュイイー県馬ハ)があった。前漢の年代に、市境界内に、また淮浦(現在漣水県の西)、射陽(現在楚州区の南東)、富陵(現在洪沢湖の中)などの県を追加設立した。
魏・晋・南北朝の時代
市境界内は長期にわたり戦争と対峙の最前線にあった。南斉永明7年(西暦489年)に、直凟、破釜以東を割り、淮陰鎮の100戸の平民を淮安県に入居させて、「淮安」と名付け始められた。
隋・唐・五代の時代
境界内は長期にわたり安定していて、隋の大業年代に、洛陽~揚州の河川輸送(皇族の食糧を供給する河川輸送)要路――大運河は開通されて、境界内は河川輸送の重要な要路になっていた。隋から清朝の末まで、朝廷はずっと淮安に政府機関を設置してきて、河川輸送を管理するように高官を任命・派遣していた。唐の初期に、漣水は全国四大の天日製塩場の一つになっていた。淮安の塩を運送・販売するために、垂拱年代に、塩運送の川を開通して、淮安の塩運送事業は、また盛んになった。楚州(現在の楚州淮城)、泗県州(現在のシュイイー県城の向こう岸)は運河沿線の二つの名城になっていた。
宋・元の時代
北宋の時代では、境界内は比較的に安定していて、河川輸送、塩輸送は一層発展してきた。南宋と金・元朝の対峙時期に、市境界は再び最前線になって、戦争の長期にわたる害毒を被った。黄河の淮水奪いによった頻繁な水害のため、市境界は災難が重なって、さらに不景気になってしまった。宋・元の時代では、安定していて、境界内の文化はある程度の発展を取って、府、州、県はあまねく学校を創立して、教育を受けた者は増えてきた。
明・清の時代
境界内に、淮安府を設立した。明の永楽時代に、淮安の河川輸送はまた盛んになり、清江浦は興り始めた。清江浦河を軸心とする二淮都市は、河川輸送、塩輸送、河川工事、税関、郵便局の中心になっていて、最盛期に入り、揚州、蘇州、杭州と共に、運河沿線の「四大都市」とされていた。
民国の時代
淮安府が撤去されて、市境界の大部分は淮揚道に帰属し始め、その後、淮陰行政監察区に帰属した。ここの中国共産党の党組織は1927年に創立された。日中戦争と解放戦争の時期に、境界内は重要な根拠地と解放区になっていて、中国共産党中央華中局、新四軍軍部、中国共産党中央華中支局、華中軍区、江蘇・安徽辺区政府などは、みんなここに駐在したことがある。1948年12月に、市境界全体は解放された。1949年5月に、淮陰専区は設立された。
建国後
何回もの調整を経て、1971年に現在の市境界は属淮陰専区に全部帰属した。1983年に、淮陰専区は淮陰市に変更された。1987年に、管轄する淮安、宿遷は、県級市に変更された。1996年8月に、宿遷、泗陽、シュ陽、泗洪という4つの県(市)は淮陰市から分離されて、地級宿遷市を創立され、また、灌南県は連雲港市に編入されている。2001年2月に、淮陰市は淮安市と改名され、元の県級淮安市は淮安市楚州区に変更され、元の淮陰県は淮安市淮陰区に変更されている。
淮安の起源
上古時代では淮夷に帰属し、春秋の時代では呉に帰属し、呉の滅亡後、越に帰属し、戦国の時代では、楚に帰属していた。秦の時代では、淮陰県が設立し始められ、漢武帝元猟6年(紀元前117年)に、淮陰県から分離されて射陽県に帰属した。三国の時代では、魏に帰属して、曾て広陵郡に管轄されたことがある。東晋義煕7年 (西暦411年)に、広陵郡から分離されて山陽郡に帰属して、同時に山陽県が設立された。隋の時代では、楚州と名づけ始められ、唐の時代でも、そのまま(天宝の時に、嘗て淮陰郡を改名されたことがある)であった。南宋紹定元年(西暦1228年)に、淮安軍、淮安県に変更されて、暫くして、再び淮安州に昇級した。元の時代では淮安路で、明・清の時代では淮安府であった。三国時代の魏から、山陽県はずっと州、軍、道、府の駐在地になっていた。民国3年(西暦1914年)に、淮安府が撤去されて、山陽県を淮安県に変更された。1945年に、市街区は淮城市に設立され、二淮都市に帰属して、中国共産党中央華中支局華中軍区の所在地になっていて、解放後、依然として淮安県に帰属していた。1987年12月に、国務院の承認の上、県を撤去され、淮安市を設立された。2001年に、元の地級淮陰市は淮安市と改名されて、元の県級淮安市は淮安市楚州区と改名された。
淮陰の起源
秦の王政24年(紀元前223年)に県を設立されて、その駐在地が淮河南岸(現在、淮陰県碼頭鎮の辺り)に位置したため、「水の南は陰なり」という古語のように、淮陰と名付けられた。南宋の咸淳9年(西暦1273年)に、淮陰北部に清河軍を設立され、三年後、元朝に帰属して、清河県と改名されて、その駐在地が大清河口(泗水は泗陽を通って二本と分けられて、一本は大清河と言いい、もう一本は小清河という)に位置したため、名づけられたのである。乾隆27年(西暦1762年)県駐在地が清江浦に遷移した。河北省清河県と同名なので、1914年に再び淮陰を改名された。解放後、清江市ともいい、80年代では、再び淮陰市といい、現在、淮安市である。その下に、淮陰区を管轄している。
シュイイーの起源
秦は、シュイイー県を設立して、許慎が「説文解字」で「目を張ると、シュイなり、見を上げると、イーなり」と述べたように、県駐在地が聖人山の上に(現在シュイイー城以北10キロ)設置していたので、山を登って淮水を臨むと、淮河の風景を眺めることができる。
金湖県の起源
1960年4月に県を設立された。境界内には湖が多くて、界首湖は昔、津湖と名付けられて、しかもその境界内には大、小金溝があるので、金湖と名づけられたのである。
洪沢県の起源
1956年に、湖のため県を設立され、水のため名を付けられた。昔、洪沢湖がなくて、破釜澗、白水塘、富陵湖、泥墩湖、万家湖は淮河の右側に並らんでいて、隋の大業12年(西暦616年)に、隋煬帝楊広は江都に行幸して、破釜澗を通る時に、長く続いて干魃していたが雨が降り、そこで洪沢浦に改名した。洪沢という名は歴史に記録し始められた。
漣水県の起源
水のため、名を付けられて、漢の元猟6年(紀元前117年)に淮浦県が設けられて、淮河浜に位置していたから。隋の開皇5年(西暦585年)に、県境界内に漣河(別名は漣水で、シュ水の淮水に入る一本である)があるので、漣水と改名されたのである。南宋の景定3年(西暦1262年)に、漣水県は安東州に昇格して、その後、州を県に変更されて、遼寧省の安東と同名なので、1914年に依然として漣水県と名付けられた。